金. 11月 22nd, 2024
819 :名無しさん@おーぷん 2016/08/13(土) 15:45:03 ID:bPX
シドニー五輪(2004年)の閉会式を見ながら、当時77歳の毒父は「自分は北京オリンピック(2008年)まで生きられない、
これが最後の夏のオリンピックだ」とさも悲しげに言った。

これが普通の父親であれば、「そんな事はないよ」と励ますところだが、母も私も白けていた。父はいつも「もうすぐタヒぬから、
好きにやらせて」と言って、めちゃくちゃな事をしてきた。駅のホーム・銀行・役所等で列に並ばない・順番を待てないところ
から始まって、いろいろな社会のルールを無視した。交通事故も一年に一回は起こした。わけの分からん姉ちゃんに金を渡して、
いかがわしい行為をしてもらっていた。孫(私の息子)の進学先・就職先にも口を出した。電話魔でいろいろな人に(普通の人の
観点で)用もないのに「大切な事(例えば、痔持ちの自分が便秘で苦しい)」と言って電話をかけた。父は「問題行動のデパート」
「苦情収集機」のような糞毒父だった。若い時は「女忄生問題の専門店」と呼ばれた人だった。

父は「自分は高齢」という口実を得て、ますます言う事を聞かなくなった。多くの医者からは出禁にされ、処方箋を持たないのに
薬局に自分の考え通りの薬を「よこせ」と言って警察を呼ばれた。少しでも具合が悪いと病院に行き入院して、自分勝手な行動で
追い出されることを繰り返した。東京は病院が多いから父がいくら追い出されても、行ける病院が尽きなかった。
家族である母や私が呼ばれ、「監督不行き届き」で叱られた。母や私が咎めると、父は「うるさい」「放っておいたら良い」と言う
だけで行動を改めなかった。
父は兄弟が多く、家が貧しかったので、父は祖父(父の父)から「いらない子」と言われて育ったらしい。祖母(父の母)が父の
看病をしようとすると祖父が「タヒんだら良いから放っておけ」と言った事を悔しそうに私に話したことがある。祖母は早くに亡くなった。
父は若い頃に結核になって「自分は長く生きられない」が頭にこびりついたせいか、「生きて居るうちに好きな事をする」がモットーとなり、
周りの迷惑を考えない、とんでもなく迷惑な人間になった。
そんな父が家で転倒し階段から落ちて入院した。やはり、入院先でも医師・看護師の言う事を聞かず、めちゃくちゃな行動があり、
高齢もあって「認知症」の診断が出て精神病院に転院することになった。
精神病院では、今までの病院のような医師・看護師の方々の「困ります!!!!」「何ですかあの人は?!!」的な反応がないので
私はその点では楽だった。
父は精神病院で、心が穏やかになる薬を処方され、怒鳴らなくなっていった。かわりに幼子の様に看護師に甘えて、かまってもらい
たがるようになった。
亡くなった時、父は穏やかな顔していた。「生きて居るうちに好きな事をする」。そんな人生で父は楽しかったのだろうか?ただただ、
お母さんに優しくされ、何でも許され、かまってもらいたかったのだと思う。それは社会のどこにも無かった。無いものを探し続けて、
周りの人を不幸にして父は2016年リオ・オリンピックの直前に亡くなった。
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