165 :ちわわ 2014/03/26(水) 17:42:05 ID:3d81ShL2B
157です。出掛けていて遅くなってしまいました。
軽くフェイクありますが、ほとんど実話です。
私の家族は元々母方の祖父母・父・母・兄・私の6人家族でした。
確か小学校1年生前後は母は働いていて幼稚園や学校から帰ってきたら祖父母と過ごしていました。
祖父は植物に詳しくて庭の手入れも良くしていました。私はそんな祖父の事が自慢で好きでした。
小学校のクラスにある植物に虫がついたときも祖父が虫を取るための薬をくれて学校に持って行ったりしてました。
その頃祖母の事をどう思っていたかあまり覚えていません。ただ、「おばあちゃん大好き!」って感じじゃなかったように思います。
そして、小学生高学年のときだったかに1つ目の修羅場がありました。
それは祖父母の離婚です。原因は祖父の浮氣と言われました。
それが分かる数ヶ月前からよく祖父母が怒鳴り合う声が聞こえていました。
そういう時私は2階にいて、そんなに深刻な事になってると知らなかったのでうるさいと文句を言ったりしたときもありました。
離婚すると告げられる数日前に祖父が使っていた部屋が空になっているのを見て「ああ離婚するんだなあ」と冷静に思った記憶があります。
そしてある日2階にいるときに呼ばれて下に行くと祖父を除く家族が揃っていて「お爺ちゃんとお婆ちゃん別れたから。いいよね?」と言われました。
その時私は何も言わず2階に戻り、暫くの間泣きました。
今でも「いいよね?って、なんで答えのない質問をしたんだろう。もう答えは出てるじゃないか」とたまに思います。
それから前に増して祖母が嫌いになっていったように思います。
祖母は離婚のショックだとかで体調を崩していきました。私は正直どうでも良かった。
そして中学生の時に入院してある時入院していた病院から救急車で大きい病院に運ばれました。これが2つ目の修羅場です。
ここだけの話、入院してるときは祖母が家にいないためストレスが少なくなり一人で喜んでいました。
運ばれたとき母も付き添っており、母は運ばれたその日から亡くなるまでの2ヶ月間ずっと病院に寝泊りしていました。
父がたまには家に帰ったら?といってもずっと付き添っていました。多分離婚したショックで倒れた自分の親が心配だったんですかね。
週一回病院に見舞いにいってましたが正直祖母よりも母のほうが心配でした。
母は病院の簡易ベッドで過ごす為に顔が凄くむくんだり体調を崩したりしていました。
母が病院で寝泊りしている間、私は父と2人で過ごしました。(兄は大学に行くために離れて暮らしていました)
母がいないので色々と大変でした。肋間神経痛になったり髪がいっぱい抜けたりしました。
そんな状況でもちゃんと朝食や夕食を作り洗濯等をしてくれた父には本当に感謝しています。父が出張の時に面倒を見てくれた親戚の人にも感謝でいっぱいです。
そんな生活にも終わりが来ました。祖母がタヒんだからです。
夜中に父に電話が来て、2人で病院にいきました。真夜中の病院って初めて見るなあなんて頭の隅で考えていました。
それからはどたばたと時間が過ぎていきました。学校側から一週間も忌引きを貰ってそんなに貰えるのかとびっくりしました。(友人にも1週間休んだので色々と心配されました)
祖母は外面はよかったので友人という人がいっぱい来ました。
ほとんど泣きませんでした。泣いたのは祖母が亡くなった時と葬式の時に母に育ててもらったお礼を言えといわれたときだけですね。だって、好きじゃない、嫌いな人がタヒんだから。
初七日とかも終わって落ち着いた頃に思ったのは「ああやっとみんな解放された。」でした。
これでまた母と暮らせると思うと嬉しかったです。
長いと怒られたので切ります。
軽くフェイクありますが、ほとんど実話です。
私の家族は元々母方の祖父母・父・母・兄・私の6人家族でした。
確か小学校1年生前後は母は働いていて幼稚園や学校から帰ってきたら祖父母と過ごしていました。
祖父は植物に詳しくて庭の手入れも良くしていました。私はそんな祖父の事が自慢で好きでした。
小学校のクラスにある植物に虫がついたときも祖父が虫を取るための薬をくれて学校に持って行ったりしてました。
その頃祖母の事をどう思っていたかあまり覚えていません。ただ、「おばあちゃん大好き!」って感じじゃなかったように思います。
そして、小学生高学年のときだったかに1つ目の修羅場がありました。
それは祖父母の離婚です。原因は祖父の浮氣と言われました。
それが分かる数ヶ月前からよく祖父母が怒鳴り合う声が聞こえていました。
そういう時私は2階にいて、そんなに深刻な事になってると知らなかったのでうるさいと文句を言ったりしたときもありました。
離婚すると告げられる数日前に祖父が使っていた部屋が空になっているのを見て「ああ離婚するんだなあ」と冷静に思った記憶があります。
そしてある日2階にいるときに呼ばれて下に行くと祖父を除く家族が揃っていて「お爺ちゃんとお婆ちゃん別れたから。いいよね?」と言われました。
その時私は何も言わず2階に戻り、暫くの間泣きました。
今でも「いいよね?って、なんで答えのない質問をしたんだろう。もう答えは出てるじゃないか」とたまに思います。
それから前に増して祖母が嫌いになっていったように思います。
祖母は離婚のショックだとかで体調を崩していきました。私は正直どうでも良かった。
そして中学生の時に入院してある時入院していた病院から救急車で大きい病院に運ばれました。これが2つ目の修羅場です。
ここだけの話、入院してるときは祖母が家にいないためストレスが少なくなり一人で喜んでいました。
運ばれたとき母も付き添っており、母は運ばれたその日から亡くなるまでの2ヶ月間ずっと病院に寝泊りしていました。
父がたまには家に帰ったら?といってもずっと付き添っていました。多分離婚したショックで倒れた自分の親が心配だったんですかね。
週一回病院に見舞いにいってましたが正直祖母よりも母のほうが心配でした。
母は病院の簡易ベッドで過ごす為に顔が凄くむくんだり体調を崩したりしていました。
母が病院で寝泊りしている間、私は父と2人で過ごしました。(兄は大学に行くために離れて暮らしていました)
母がいないので色々と大変でした。肋間神経痛になったり髪がいっぱい抜けたりしました。
そんな状況でもちゃんと朝食や夕食を作り洗濯等をしてくれた父には本当に感謝しています。父が出張の時に面倒を見てくれた親戚の人にも感謝でいっぱいです。
そんな生活にも終わりが来ました。祖母がタヒんだからです。
夜中に父に電話が来て、2人で病院にいきました。真夜中の病院って初めて見るなあなんて頭の隅で考えていました。
それからはどたばたと時間が過ぎていきました。学校側から一週間も忌引きを貰ってそんなに貰えるのかとびっくりしました。(友人にも1週間休んだので色々と心配されました)
祖母は外面はよかったので友人という人がいっぱい来ました。
ほとんど泣きませんでした。泣いたのは祖母が亡くなった時と葬式の時に母に育ててもらったお礼を言えといわれたときだけですね。だって、好きじゃない、嫌いな人がタヒんだから。
初七日とかも終わって落ち着いた頃に思ったのは「ああやっとみんな解放された。」でした。
これでまた母と暮らせると思うと嬉しかったです。
長いと怒られたので切ります。